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「母を許せない娘と許されたい母」②思春期に生まれたわだかまり

母と娘

母を遠ざけた思春期

三人姉妹の長女ってだけで、小さい頃から妹たちよりずっと厳しく母に叱られてきた。

「お姉ちゃんなんだから!」

このセリフ、ホントに大嫌いだった。

子どもにとって、家って安心できる場所のはずなのに、母の顔色ばかり見ていた。

うちの母はいつも内職で忙しく、夕飯はいつも冷めたお惣菜がちょっとだけ。

笑顔の少ない母の顔を見るたび、胸がぎゅーっと締め付けられ、息苦しくてたまらなくなった。

生活のため、お金のため、懸命に働く母。

忙しく心のゆとりがなかったことは、今の私なら理解できる。

でも、思春期だった私は、母を思いやる事もできず、母への反発心だけがどんどん強くなってしまっていた。

「どうして私ばっかり……」

口には出さないが、心の中ではいつもそう思ってた。

寂しさとか、愛情の裏返しとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、次第に母への反発心に変わっていった。

人間にとって楽しくない経験は、脳にとってストレスになることが多いという。

また、忘れやすくなるようだ。

特に強いネガティブな感情を伴う記憶は、脳が防衛機能として意図的に薄れさせることもあるらしい。

私は、中学・高校までの6年間の記憶があまりない。

中学一年生までは、友達にも恵まれて、それなりに楽しかったと思う。

でも、中学二年のクラス替えで、学校が急に苦痛になった。

新しいクラスになじめず、先生も嫌い。

担任はテニス部の顧問で、体育会系のノリが性に合わなかった。

「学校なんてつまんない。行きたくない。」

朝になると本当にお腹が痛くなって、体が拒否反応を起こすみたいだった。

体温計をこすって誤魔化そうとしたが、母には通用しない。

結局、母には気持ちを打ち明けられず、成績もどんどん下がっていった。

「もっと頑張って!気の持ちようだよ。」お決まりのセリフ。

その言葉に私は黙り込むしかなかった。

『どうして、私の気持ちを分かってくれないの?』

そう叫びたかったけれど、言葉は喉の奥で引っかかって出てこなかった。

――違うのに。そんな単純なことじゃないんだよ。

何度話しても、私の気持ちは母の言葉の壁に跳ね返されてしまう。

――この人に言ってもムダだ。どうせ分かってもらえない。

そう思うようになってから、母への愛情は、少しずつわだかまりに変わっていった。

中学時代は、いろんな葛藤の中で、自分の生き方を模索し始めた時期だった。

親や先生とは距離を取って、友達との関係の方がずっと大事に思えた。

クラスになじめないことで、自分の価値まで否定された気がして、親への反抗心も募っていく。

本当の自分をさらけ出せなくて、他人との交流にも消極的になった。

それでも、誰かに認めてほしかった。

高校は、母の勧める普通科は断固拒否し、家政科を選んだ。

調理や、被服などの実習が多く、意外にも自分の得意なものを見つけることができた。

授業も楽しく、自分の作品ができあがる喜びは大きかった。

高校での学びが、社会に出てから大きく役立つ事をこの時は知らなかった。

学校で習った料理の復習として、休日に家族のために夕飯を作った。

その時の母はとても嬉しそうで「おいしいよ。」とほめてくれた。

この時ばかりは、自分の存在を認めてもらえた気がして本当に嬉しかった。

しかし中学生時代と同じで、他人との交流には相変わらず消極的だった。

本当の自分をさらけ出せない。

何故かいい子ちゃんを演じてしまう。

――もっとはしゃぎたい。もっと自由にふるまいたい。

――私、本当はモノマネが得意なんだよ!

不良少女と呼ばれてた子たちが羨ましかった。

仲間がいっぱいいて、いつも楽しそう。

自分だけがポツンと取り残されている気がしてならなかった。

トイレで化粧した彼女たちには、学校の門前まで車を乗りつけた彼氏が待っていた。

先生から目をつけられても、注意されてもお構いなし。

自由奔放!キラキラした笑顔で、颯爽と車に乗り込む。

――あーあ・・・私はなんでこんなに地味なんだろう。

先生から成績を褒められても、ちっとも嬉しくなかった。

高校生になっても、結局は同じ。

何も変わっていない。

「やっぱり学校なんてつまんない。もう行きたくない。」

気持ちは中学生の頃の延長線上に過ぎなかった。

いっそのこと不良少女になってしまおうか。

そんなバカなことも考えていたが、どうしてもあの言葉が頭から離れなかった。

トラウマになるほど強烈な体験は逆に記憶に残りやすい。

「お姉ちゃんなんだから!」

「妹たちの見本にならなきゃいけないの。」

こうして高校卒業後、私は大学へは進学せず、すぐに就職した。

高校三年の夏、父が仕事で大けがをして、半年間入院した。

左手を失う大事故で、進学をあきらめたのも、その時だった。

三年前に父は肺がんで亡くなったが、亡くなる少し前にポツンと言った。

「俺がケガをしたばっかりに・・・大学へ行かせられなくて済まなかった。」

と・・・

私自身、ほとんど忘れていたことだが、一生を通し、ずっと抱えていた父の気持ちに、全く気づかない愚かな娘だった。

父のこの言葉を聞いた時、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

もしかしたら何かの折に、大学に行かせてもらえなかった事を何気なく口に出していたのかもしれない。

知らず知らずのうちに父を責めるような言葉や、傷つけるふるまいがあったかと思うと、いくら悔いても遅い。

今さら謝っても遅いよね・・・

でも・・・「お父さん、ごめんね。」

当時は、経済的に無理なことも理解していたつもりだったし、妹たちの学費のことを考えたら、自分が働くしかないと思った。

「うちは大学は無理だからね。」

それは、母にしてみれば苦しい願いでもあったし、私自身の選択でもあった。

とにかく家を出たかった。

自立すれば、母との距離も取れるし、何より「お姉ちゃんだから」という呪縛から解放される気がしていた。

就職先は、食品会社の社員食堂。

家政科で学んだ調理技術を生かせる仕事で、単純作業ではあったけれど、作った料理を「おいしい」と言われると、心がじんわり温かくなった。

ただ、それでも私はどこかで満たされない思いを抱えていた。

同期の同僚たちとは、仕事終わりに飲みに行ったり、カラオケしたり。

ところがうちは門限が厳しく、夜10時を回ると家に入れてもらえなくなる。

やっと入れてもらえたとしても、クドクドと母からの尋問が待っている。

言い訳するのも面倒くさかった。

旅行へのお誘いも、断ることが多かった。

それは中学・高校の頃から変わらない癖のようなものだった。

「いい子でいなきゃ」

「ちゃんとしなきゃ」

ずっと、そうやって生きてきた。

――本当の気持ちを母にぶつけるのが怖かった。

でも、ある日、大きな転機が訪れた。

仕事を始めて三年目、友達の紹介で知り合った男性と、意気投合。

――私きっと、この人と結婚する!

これが運命の出会いだと、少しも疑わなかった。

彼と話していると、不思議と自然体の自分でいられた。

取り繕う必要も、無理に「いい子」でいる必要もなかった。

彼は、私の些細な話にも耳を傾け、笑ってくれた。

「頑張らなくていいよ。そのままでいいんだよ。」

その言葉が胸に染みた。

私は、ずっと誰かにそう言ってほしかったのかもしれない・・・

彼と一緒にいると、今までずっと抱えていた「お姉ちゃんだから」という呪縛が少しずつ溶けていく気がした。

結婚を意識したのは、出会って半年ほど経った頃だった。

「一緒に生きていきたい。」

そんな気持ちが、自然と湧いてきた。

私は、ようやく「自分の人生」を歩み始めようとしていた。

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