親子でも別々のごはん──わが家流の暮らし方
84歳の母と64歳の私。
二人暮らしのわが家では、食事は別々に作っています。
母は柔らかいものが好きで、私は噛み応えのある食事が好み。
好みも歯の状態も違うので、一緒に作るより別々のほうがストレスが少なく、暮らしやすいのです。
それでも、時々おかずを分け合ったり、台所の時間を工夫したりしながら、親子の距離をほどよく保っています。
今回は、母娘二人暮らしで食事を別々に作る日々と、そのちょっとした知恵や工夫を綴ります。
「一緒に作らないの?」とよく聞かれます
ごはんはそれぞれ別々に作っています。
この話をすると、たいてい驚かれます。
「どちらかがまとめて作るんじゃないの?」
「交代制じゃないの?」と。
でも、わが家にはわが家の事情があるのです。
食べたいものも、食感も違うから

母は入れ歯で、柔らかいものが好き。
私は歯が丈夫で、噛み応えのあるものが好き。
ご飯のかたさひとつ取っても、母はやわらかめ、私はしっかりめ。
雑穀やもち麦も入れます。
本やテレビでは「一緒に台所に立つ親子」のイメージがありますが、私は正直、二人並んで料理するのが苦手です。
一人であれこれ考えながら作る時間こそ、私にとっては大切なひととき。
親子だからといって、いつも寄り添えるわけではありません。
母の戸惑いと、私の本音

最初、母はこの“別々のごはん”に戸惑っていました。
「えっ、別々に作るの?」と目を丸くしていた母の顔、今も覚えています。
私は長いあいだ一人暮らしをしてきたので、その方が気を使わずに済みます。
いくら自分の親とはいえ、
何でもかんでも一緒は無理だし、疲れてしまうこともある──そう正直に感じていました。
食事を別々に作ることは、
私にとっては罪悪感と安堵のあいだにある選択でした。
でも、続けてみるうちに、母も少しずつ慣れ、お互いが自分のペースを守れるようになって、同居のストレスも軽くなった気がします。
料理は母の脳トレ・私の息抜き
暮らし始めたころは、私がいつも母の分まで作っていました。
でも、仕事が遅くなるとそれがストレスになり、総菜を買うことに罪悪感を覚えることも。
思い切って「お互いに作る」スタイルにしてみたら、母は意外にも楽しそうに台所に立ち、私も自分の食べたいものを気兼ねなく作れるようになりました。
料理は脳トレや認知症予防にもなると言います。
母が作れるうちは、自分でやってもらいたい、という気持ちもあります。
たまにはおすそ分け──小さなうれしさ

それでも、いつもきっちり別々ではありません。
時々、おかずを分け合うこともあります。
「たまには変わったものが食べられていいね」
母が嬉しそうに笑うと、私もつられて笑顔になります。
母の作る切り干し大根やひじき煮は、なかなかまねできない味。
器に少し分けてもらうたびに、あたたかな記憶までおすそ分けしてもらっているような気がします。
台所の時間割も、わが家の工夫
休日は台所に立つ時間が重ならないよう、
私はつい「今日は4時に台所使うからね」と先に宣言してしまいます。
「わかった、じゃあ私は3時にしようか」
母はそんなふうに、にこにこと答えます。
一見わがままに見えるかもしれませんが、
お互いが気持ちよく台所を使うための小さなルール。
同じ家にいても、生活リズムや性格が違うからこそ、
こうした「時間割」があると、無理なく暮らせるのです。
冷たいどころか、長く続く暮らしの知恵
「冷たいんじゃない?」と心配されることもありますが、むしろ逆。
お互いが自分のペースを保てること、そして無理なく暮らし続けられることが、何より大切だと感じています。
親子でも、それぞれに台所があるような暮らし方もあるんです。
今日の縁側便り

秋風がふっと縁側を抜けていく夕暮れどき、
台所から母のお鍋のいい匂いが漂ってきました。
ご近所からいただいたサツマイモをふかしているようでした。
私はその隣で、カリッと焼いた鶏肉を頬張りながら
「こういう暮らしも悪くないな」と思います。
同じ屋根の下、別々の鍋で作るごはん。
でも時々、器を行き来させながら「おいしいね」と笑い合う──
そんな時間も、悪くないものです。
今日もお話を聞いてくださってありがとうございます。
ばぁばちゃんは、心の中のお店をそっと開けて、お茶を淹れてお待ちしています。

おかえりなさい。
「ばぁばちゃんの台所カフェ」から、そんな思い出を込めて。
今、好きなことを仕事にする生き方を未来型*夢の降る道で学んでいます。
まるで大人のための寺子屋みたいなイメージ。
ここでは「山ごもり仙人」と呼ばれる竹川さんや、
私の心を丁寧にほぐしてくれた千聖さんに出会うことができました。
なんだか、こっそり覗いてみたくなりませんか?

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