あの泥棒事件は本当に侵入によるものだったのか、それとも店をたたむための仕組まれたカムフラージュだったのか──
真相は、今も分かりません。
ただ、あの日の夜に感じた底冷えする寒さと胸の奥のざわめきだけは、
10年経った今も消えてはいません。
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あれほど頼りたくなかった実家へ

娘家族が海辺の町へ引っ越してから、会える時間はぐっと減りました。
休日ランチも、公園でのんびり過ごす時間もなくなり、
「ばぁばちゃーん」と駆け寄る孫の笑顔を思い出すと、胸がぎゅっとつまる思いです。
気軽に会えていた日常が、どれほど心の支えだったか──。
でも、いつまでもメソメソしてはいられません。
娘や孫に会いに行くためにも、元気でいなければ。
実家への複雑な思い
寿司店を辞めて無職になってしまった私は、しばらく実家に身を寄せることになりました。
度重なる転職で貯金は底をつき、家賃の支払いも限界に。
あれほど頼りたくなかった実家に、仕方なく身を寄せることになりました。
介護施設での新しい仕事

あの寒い冬を越えて、少しずつ心がほぐれ、ようやく新しい一歩を踏み出す勇気が湧いてきました。
寿司店での理不尽な扱いを経験してから、
「もう飲食店では働きたくない」と思っていました。
資格もなく、何ができるのか自分でも分からないまま──
そんな時、目に留まったのが介護施設の調理員の求人でした。
こうして、娘一家の引っ越し後、私は介護施設で新しい仕事を始めることになりました。
飲食店での経験が活きる
初めて触れる介護の現場。
直接利用者さまと接することはありませんでしたが、
想像していた「老人施設のイメージ」とはまったく違っていました。
料理を運んだ先で目にしたのは、車いすに座り、無表情で食事を待つ入居者の方々。
笑顔はほとんどなく、言葉も発しない──。
私が思い描いていた介護の現場とは、まるで別世界でした。
厨房での挑戦

私の勤務先は、約120名の入居者が暮らす施設。
普通食・きざみ食・極きざみ食・ソフト食の4種類に加え、
アレルギー対応食も作ります。
野菜カットや調理、食器洗浄などの持ち場は日替わり。
冷凍食品は一切使わず、行事食も季節感たっぷり。
管理栄養士のこだわりは、時に無理難題に思えることもありましたが、
『食べることは生きること』──その思いは、私の中にも確かにありました。
うまく作れた時の達成感

普通食やきざみ食は家庭料理に近く、味付けも自由度が高め。
調理責任者から「あなたが美味しいと思う味付けでいいですよ」と
言ってもらえた時は、とても気が楽になりました。
一番難しいのはソフト食です。
ソフト食は1つ1つの食材ごとにミキサーにかけ、固める…
調理工程が多く、どうしても手間暇がかかります。
普通食を使い、テクスチャー剤で飲み込みやすく加工し、
しかも見た目は普通食に近づけなければなりません。
例えばカレーライスなら、ジャガイモや人参を別にやわらかく調理し、
最後にそっとルーに合わせる。
手間はかかりますが、きれいに美味しく仕上がった時の達成感は格別でした。
利用者に「おいしい」と思ってもらいたい。
その気持ちが、何より私を支えていました。
こうして、介護施設での日々を通して、私は少しずつ自分のペースを取り戻していきました。
思いがけない場所での新しい経験が、私の心を支えてくれる。
そんな気持ちになっていたのです。
「介護やってみない?」の誘い

料理を運ぶ時、介護職員の働く姿が目に入りました。
「大変そうだな、私には無理だな」と思っていたある日、
顔なじみの職員さんから突然の一言。
「調理じゃなくて、介護やってみない?」
真剣なまなざしに心が揺れましたが、
その人はこうも言いました。
「感情に流されやすい人は、介護には向かないかも」
短いやりとりで私の性格を見抜いたのでしょう。
私も、自分は同情が先に立って冷静に判断できないタイプだと
思っていました。
この出会いで、「介護は自分には縁のない世界」
その思いは、いっそう強くなったのです。
思わぬ結末──退職の日

利用者さんに喜んでもらえる料理を作りたい。
その気持ちは、管理栄養士のこだわりとも重なっていました。
けれど、そのこだわりは時にあまりに細かく、現場の状況を無視したものになることも……。
ある日、細かすぎる指示を巡って言い争いに。
私も感情的になり、つい「もう辞めます」と口走ってしまいました。
長く続けるつもりだった仕事を、こんな形で終えることになるとは思ってもいませんでした。
退職の日、厨房を出た瞬間の空気の冷たさが、胸にしみたのを覚えています。
【次回予告】
退職後、今度は隣町の施設で調理員の仕事に就きました。
でも、そこは前の施設とはまったく違う世界。
料理へのこだわりはほとんどなく、野菜のほとんどが冷凍もの。
初日から、胸の奥が少しひんやりして、心に小さなため息がこぼれました。
今日の縁側便り

今夜は、遠くで花火の音がしています。
ドーンと響くたびに、胸の奥もポンと揺れるよう。
……でも、見えるのは、暗い空とぼんやりとした煙と光だけ。
一緒に見に行く人もいない夏の夜。
もし孫が近くにいたら、浴衣を着せて手をつないで、
「ほら、あっちあっち!」なんて
首を伸ばして一緒に眺められたのになあ。

今年の相棒も、麦茶と蚊取り線香です。
来年は、誰かと同じ空を見上げられますように──。
いつもお話を聞いてくださり、ありがとうございます。
心の中のお店を、ばぁばちゃんは今日もそっと開けています。
それではまた――お茶をいれて、お待ちしております。

おかえりなさい。
「ばぁばちゃんの台所カフェ」より
私は今、好きな事を仕事にする生き方を、未来型*夢の降る道で学んでいます。
大人のための寺子屋みたいなイメージです。
この場所では、山籠もり仙人と呼ばれる、おもしろくて個性豊かな竹川さんと、
私の暗く閉ざされた心を、少しづつ丁寧にほぐしてくださった千聖さんに出会う事ができます。
あなたもコッソリのぞいてみませんか?
