おはようございます。
「ばぁばちゃんの台所カフェへ」ようこそ。

今日は、少し心の奥にある話をしてみようと思います。
仏壇の前に座ることができない、そんな自分に、どこか後ろめたさを感じながらも、ずっと心の中に抱えてきた想い。
もしかしたら、同じように「手を合わせられない気持ち」を持っている方がいるかもしれません。
誰かのこころに、そっと届けばうれしいです。
母の言葉が胸に残る

母から、「今日もお父さんに手を合わせたよ」と言われることがあります。
その言葉を聞くたびに、胸がざわつくのです。
私は仏壇の前に座ることができず、素直に返事ができない自分に、心のどこかで罪悪感を感じてしまう。
父が亡くなってから、もう3年になります。
私は小さいころから父親っ子で、父が家の中で“クッション材”のような役割を果たしてくれていました。
母とぶつかることも多かったけれど、父はいつも間に立ってくれて、私の心を支えてくれていた。
父がいなくなったとき、その空白は深く、心にぽっかりと穴があいたままです。
看取りは悔いなく行ったつもりでした。
私は介護士として、自分の手でできる限りのことをして、父を家で看取ることに決めました。
でも、どうしても心の奥に穴が空いているような気がして、仏壇の前に座ることができません。
今でもその気持ちが埋まらず、胸の中で静かに渦巻いているのです。
母の「頑張ります!」に胸がつかえる

母は毎日仏壇の前で手を合わせ、そのたびに
「頑張ります!」
「頑張ります!」
「頑張ります!」と、3回言います。
その言葉を聞くたびに、胸の奥がざわざわしてしまう。
何とも言えない感情が湧き上がり、どうにも整理できない気持ちがあります。
反発なのか、嫉妬なのか、それとも傷ついた心の叫びなのか、自分でもうまく説明できません。
たぶん私は、父にしか言えなかった気持ちを、まだどこにも出せずにいるのだと思います。
母には言えない。
母と向き合うのも、今はまだ難しい。
それでも、父だけには伝えたかったことがたくさんあるのです。
仏壇の前に座れないことが、いいのか悪いのかも分かりません。
今は、こうして言葉にすることで、心の中の父にそっと語りかけてみようと思います。
あなたにも、手を合わせられない日がありますか?
心がまだ追いつかない日、感情に名前をつけられない日。
それでも、大切な父は、私の中で生き続けています。
無理に「いい子」にならなくてもいい。
想いがあるかぎり、それもひとつの供養だと思うのです。
今日の縁側便り

今日は、やさしいそよ風ですが、肌寒いです。
でも、縁側に座ると、庭のあじさいがふんわり色づいてきているのが見えました。
やがて、紫やピンクのグラデーションに。
「心もこうやって、ゆっくり変わっていけたらな」と思ったりします。
無理に咲かなくてもいい。
少しずつでいい。
そう自分に言い聞かせています。

お話を聞いてくださりありがとうございます。
これからも、季節の移り変わりや、日々の出来事、そして心温まるレシピなどを、ゆっくりと綴っていきたいと思っています。
どうぞ、お気軽に遊びに来てくださいな。
ではまた、お茶を淹れてお待ちしています。

おかえりなさい。