~板前だったあなたへ送る手紙~
八年目の秋に思うこと
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いつ死んだってかまわない

彼は仕事場を伊東市から熱海市に移し、
一見、平和な日常を取り戻したかのように見えました。
けれど相変わらず、「いつ死んでもかまわねえ」という精神のままでした。
治療の薬もビールで流し込む始末……
こちらが何を言っても素直に聞くような人ではありません。
体は疲れやすく、仕事も休みがち。
眠前薬の量も睡眠薬の強さも、次第に増していきました。
大好きだったビールも、惰性で飲んでいるように見えます。
『あんな飲み方で美味しいはずがない。美味しいわけないよ……』
情けなさやいらだちをこらえているようでした。
私は何も言えず、ただ見守るしかありませんでした。
だって、彼のほうが、私よりもっと──もっとつらいのだから。
定期健診の結果は?隠さないでおしえてよ!
定期健診の日。
いつものように待合で待っていると、
彼は小さく微笑んで、黙って歩き出しました。
「ねぇ、結果はどうだったの?」と尋ねると、
「いつもと一緒だ、変わらねえよ。さぁ飯でも食って帰るか!今日はラーメンだぞ」と笑います。

ところが病院の玄関を出ると、いつもとは違う方向へ。
『どこに行くんだろう……』
急に立ち止まり、振り返ってこう言いました。
「あっちに、いつか住むんだぜ」
そこは別棟の緩和病棟でした。
黙って散歩道を歩く後ろ姿が、とても小さく見えました。
『きっとまた再発したんだ!この人、絶対に嘘ついてる。私に隠してる……』
私は黙って、その背中を追うしかありませんでした。

ラーメン屋に着いても、何も話せず。
ただ静かにラーメンをすする音だけが響きました。
『話してくれるまで待つしかない……』
何度目の再発だろう
自宅に戻ると、彼はまたビールを飲みはじめ、
やっと重い口が開きました。

「また出来たってよ!くそっ!!でも、もう手術はしねぇから。」
「なんで?また病院つき添うよ。仕事は大丈夫だから。」と私。
「だめだ!つき添いはいらねぇ。
もう手術は懲り懲りなんだよ!」
いつも穏やかな彼が、この時ばかりは語気が荒く、
とても恐ろしい顔に見えました。
私はそれ以上、何も言えませんでした。
突然のさよなら:本心がわからない
彼のアパートを出る帰り際、いつものハグもありません。
それどころか、
「今度、お前の荷物取りにきてくれ。いいな!」
『え?なんで?さよならってこと?』
今は何を言っても無駄だと思い、
黙って彼の部屋を出ました。
きっと時間が解決してくれる──そう信じて。

しかし帰り道、涙が止まらず、路肩に車を止めて夕日を眺めました。
熱海の夕日が、いっそう悲しみを誘いました。
彼の娘さんからの連絡

「父がまた入院しました。手術は無事に終わりましたから、どうか心配なさらないように。」
『やっぱり再発したんだ!』
居ても立ってもいられず、病院へ向かいましたが、
彼はそっけなく「俺が入院してる間に荷物を取りに来てくれよ。合鍵も!な!頼むから……」と。
やっぱり本気のお別れなのだ、と悟りました。
この時は涙も出ず、どの道を走って帰ったのか覚えていません。
彼のほんとうの気持ちは?

数日後、彼の娘さんが連絡をくれました。
「父はね、すごく嬉しそうにあなたのことを話していました。
普通の人じゃないから、付き合ってくれる女の人なんていないと思っていたんです。
でもあなたのことをとても心配していました。ごめんなさいね……」
彼はこんなことも娘さんに話していたそうです。
- 自分のせいで私が職を失ったこと
- 旅行の夢も果たせなかったこと
- 俺と付き合っていてもろくな事がないこと
私は、ただただ好きでした。
少しでも彼の支えになりたかった。
病気を含め、優しいところも、破天荒な性格も全部。
彼はかつてこう言っていました。
『好きな女には俺のかっこ悪いところ見せたくないんだよ』
これは彼の本音だったのでしょうか。
好きな女って、本当に私のことだったのでしょうか。
まさかこんな形でのお別れが来るとは、想像もしませんでした。
私が彼を追い込んだ

娘さんの話を聞き、彼の言葉を思い出した時、
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
私が無理に手術を勧めたから。
嘘までついて仕事を辞め、手術につき添ったから。
全てが自分のエゴで、
彼に精神的な負担をかけてしまった──
この時、初めて気がつきました。
こうして私の恋は終わりました。
その後、彼とは一度も会っていません。
【次回予告】
彼と別れた後、病院勤務を辞め、有料老人ホームで介護職員として働き始めました。
慣れない介護の世界で、ALSの患者様に教えられたことを綴ります。
今日の縁側便り

彼とお別れして8年目の秋です。
先日、虫の知らせのように、何気なく彼の娘さんのLINEを見ました。
ステータスメッセージには『さよならお父さん』。
プロフィール画像には三人のお孫さんに囲まれ、穏やかに笑う彼。
ずいぶんと痩せた姿に、
「もしかしたら亡くなったのかもしれない……」そう感じました。
1週間後に再びLINEを見た時には、
ステータスメッセージも画像も変わっていました。
真実は分かりませんが、
『きっと遠い空のどこかで、板前として包丁を握っているよね。』
そんな気がしてなりませんでした。
彼との出会いがきっかけで、私は介護士になり、
今も介護士として働いています。
この出会いがあったからこそ、今の生活がある──そう感謝しています。
この物語を書いたことで、少しだけ気持ちの整理ができた気がします。
いつも、お話を聞いてくださりありがとうございます。
心の中のお店を、ばぁばちゃんはいつも、そっと開けています。
それではまた――お茶をいれて、お待ちしております。
私は今、好きな事を仕事にする生き方を、未来型*夢の降る道で学んでいます。
大人のための寺子屋みたいなイメージです。
この場所では、山籠もり仙人と呼ばれる、おもしろくて個性豊かな竹川さんと、
私の暗く閉ざされた心を、少しづつ丁寧にほぐしてくださった千聖さんに出会う事ができます。
あなたもコッソリのぞいてみませんか?

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