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「母を許せない娘と許されたい母」――思春期に生まれたわだかまり

母との関係

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母を遠ざけた思春期

放課後の中学校の教室

三人姉妹の長女だった私は、小さい頃から、妹たちよりもずっと厳しく母に叱られてきました。

「お姉ちゃんなんだから!」

この言葉が、本当に大嫌いでした。

子どもにとって「家」は、安心できる場所であってほしいのに、私はいつも母の顔色ばかりを気にしていました。

母はいつも内職で手を動かしながら、疲れた顔をしていました。

夕飯は冷めたお惣菜が少しだけ。

母の笑顔は少なく、その表情を見るたび、胸がぎゅっと締めつけられて、息苦しくなることもしょっちゅうでした。

生活のため、お金のために、懸命に働く母。

今の私なら、その忙しさや心の余裕のなさも理解できます。

でも、思春期まっただ中の私は、母を思いやる余裕なんてなかった。

ただただ、母への反発心ばかりが強くなっていきました。

「どうして私ばっかり……」

口には出せないけれど、心の中ではいつもそう思っていました。

寂しさや、愛されたい気持ち。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、やがて反発へと変わっていったのです。

「記憶」が抜け落ちている理由

今にも雨が降りそうな気配の空

人は、つらい体験ほど忘れやすくなるといいます。

脳がストレスから身を守るために、記憶をあえて薄れさせることもあるそうです。

私には、中学・高校時代の6年間の記憶があまりありません。

中学一年のころは、友達にも恵まれて、それなりに楽しかったと思います。

でも、中学二年になりクラス替えがあってから、学校が急につらく感じるようになりました。

新しいクラスにはなじめず、担任の先生も苦手。
体育会系ノリのテニス部顧問で、私にはどうしても合わなかった。

「学校なんてつまんない。行きたくない。」

朝になると本当にお腹が痛くなって、体が拒否反応を起こしているようでした。

体温計をこすって熱があるように見せかけても、母には通じませんでした。

気持ちを打ち明けることもできず、成績はどんどん下がっていくばかり。

「もっと頑張って!気の持ちようだよ。」

母のお決まりのセリフに、私はただ黙り込むしかありませんでした。

『どうして、私の気持ちを分かってくれないの?』

そう叫びたかったけれど、言葉は喉の奥で引っかかって、どうしても出てこない。

――違うのに。そんな単純なことじゃないんだよ。

何度言葉にしても、私の気持ちは、母の「正しさ」という壁に跳ね返されてしまうのでした。

背を向けて咲く、2輪の黄色いダリア

わかってもらえない、と思ったあの日から

――この人に言ってもムダだ。どうせ分かってもらえない。

そう思うようになってから、母への愛情は、少しずつわだかまりへと変わっていったのです。

心が揺れた中学時代

中学時代は、いろんな葛藤の中で、自分の生き方を模索し始めた時期でした。

親や先生とは自然と距離をとるようになり、友達との関係の方がずっと大切に思えていました。

でも、クラスになじめないことで、自分の価値までも否定されたような気がして、親への反発心はどんどん膨らんでいきました。

本当の自分をさらけ出すのが怖くて、人との関わりにも消極的に……。

それでもどこかで、誰かに「認めてほしい」と願っていたんですね。

家政科で見つけた、小さな自信

黒板と桜の花

高校では、母がすすめる普通科をはっきりと拒んで、家政科を選びました。

調理や被服などの実習が多くて、意外なことに自分の得意なものを見つけることができたんです。

授業も楽しくて、自分の手で作品を完成させる喜びは、とても大きなものでした。

この高校での学びが、のちに社会へ出たときに大いに役立つとは、その時はまだ知る由もありませんでした。

お母さんの「おいしいよ」

やわらかな日差しが差し込む、校舎の窓辺

学校で習った料理を復習するつもりで、休日に家族のために夕飯を作ったことがありました。

その時の母は、とても嬉しそうな顔で「おいしいよ」と言ってくれたんです。

その一言が、胸にすっと入ってきて──

「自分の作った料理をお母さんは喜んでいてくれる」と、はじめて認めてもらえたような気がして、すごく嬉しかったのを覚えています。

消極的なままの人間関係

それでも、人との交流には相変わらず消極的なままでした。

本当の自分を出すことができず、なぜだか“いい子ちゃん”を演じてしまう……。

誰に言われたわけでもないのに、心のどこかで「こうしなきゃ」と思い込んでいたのかもしれません。

自由にふるまいたかった

自由に空を飛び回るカモメたち

――もっとはしゃぎたい。もっと自由にふるまいたい。
――私、本当はモノマネが得意なんだよ!

心の中ではそう叫んでいたのに、なかなか外には出せなくて……。

当時、“不良少女”と呼ばれていた子たちが、うらやましくてたまりませんでした。

仲間がいっぱいいて、楽しそうで、きらきらして見えました。

私はといえば、いつも教室のすみっこで、どこか取り残されたような気持ちを抱えていたのです。

キラキラの世界と、地味なわたし

トイレでちゃちゃっとお化粧をすませたあの子たちは、もう外で彼氏が車で待っています。

校門の前に車をつけて、颯爽と乗り込んで行きました。

青春ドラマみたい。

先生に目をつけられても、注意されても、まったく動じる気配なし。

自由奔放で、キラキラ笑って、風みたいに駆け抜けていくんです。

――あーあ、なんで私はこんなに地味なんだろう。

先生に成績をほめられても、ちっとも嬉しくない。
むしろ、なんだか虚しくなるだけ。

高校に進んでも、やっぱり何も変わらなかったんです。

「やっぱり学校なんてつまんない。もう行きたくない。」
そうつぶやく気持ちは、中学のころと同じままでした。

いっそ、不良になっちゃおうかな……なんて、バカなことも考えました。

でも、どうしても頭から離れない言葉があったんです。

「お姉ちゃんなんだから」って呪文

高校の卒業アルバム

トラウマになるほど強烈な呪文って、なかなか忘れられないものですよね。

「お姉ちゃんなんだから!」
「妹たちの見本にならなきゃいけないの。」

この言葉が、ずっと私の心の真ん中にあったんです。

だから高校を卒業してすぐに就職する道を選びました。
大学には進めずに……

高校三年の夏に、父が仕事中に大ケガをして半年も入院したんです。

その事故で左手を失って……私の進学は、あきらめざるを得ませんでした。

父のひとことに、胸がつまる

父が肺がんで亡くなったのは、もう三年前。

亡くなる少し前の闘病中、ぽつりとこう言ったんです。

「俺がケガをしたばっかりに……大学へ行かせられなくて済まなかった。」

そのとき私は……
自分でもすっかり忘れていたようなことなのに、父はずっと抱えていたんだって思ったら、涙が止まらなくなって。

ああ、私はなんてバカな娘だったんだろう。

もしかしたら、どこかでぽろっと、「大学行きたかったなぁ」なんて言ってたのかもしれない。

知らず知らずのうちに、父を責めるような言葉を投げてたのかもしれない。

思い出すたび、いくら悔いても悔やみきれないのです。

今さら謝っても遅いのに――

でもね、お父さん、ごめんね。

自立という名の逃避

当時、経済的に大学が無理なことは、私なりに理解していたつもりでした。

妹たちの学費のこともあるし、私が働かなきゃって。

「うちは大学は無理だからね。」

母がそう言ったときの、あの表情。

それは母の切実な願いでもあったし、私自身も納得して選んだ道でした。

……とにかく、家を出たかった。

自立すれば、母との距離も取れる。

そしてなにより――
「お姉ちゃんだから」っていう、その呪縛から、やっと解放されるような気がしたんです。

社員食堂のキッチンで

就職先は、地元の食品会社が運営する社員食堂でした。

家政科で学んだ調理の技術を活かせる場所で、日々の仕事はシンプルなものだったけれど、「おいしかったよ」と声をかけてもらうと、胸の奥がじんわり温かくなりました。

けれど、それでもどこか満たされない気持ちを抱えていたのです。

同期の仲間と、仕事帰りにカラオケに行ったり、飲みに行ったり。

みんなでワイワイ笑い合うのは楽しかったけれど、私はいつも時計を気にしていました。

何で家だけ門限10時なの?

門限は夜10時。
それを過ぎると、玄関の鍵は閉められてしまう。

ようやく入れてもらえても、母のクドクドとした尋問が待っています。

言い訳するのも、もう疲れていました。

旅行に誘われても、どこか後ろめたくて断ってしまう。

それは中学・高校の頃から変わらない私のクセのようなものでした。

「いい子でいなきゃ」
「ちゃんとしてなきゃ」

ずっと、そんなふうに自分を律してきたのです。

――母に本音をぶつけるのが、怖かった。

心の扉が開いた日

そんな私に、大きな転機が訪れたのは、仕事を始めて三年目のことでした。

友人の紹介で出会った男性と、不思議なくらいすぐに打ち解けました。

――この人と、結婚するかもしれない。
そう思ったとき、自分でも驚くほど自然にその気持ちを受け入れていました。

彼といると、背伸びしなくていい。取り繕わなくていい。

「いい子」でいることを、求められなかったのです。

どんなささいな話にも耳を傾けて、笑ってくれる彼。

そんな彼が、あるとき私に言った言葉が忘れられません。

「頑張らなくていいんだよ。そのままで、十分だよ。」

その言葉が、心にすーっと沁み込んできました。

私は、ずっと誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。

彼と一緒にいると、「お姉ちゃんだから」という長女の呪縛が、少しずつほどけていくのを感じました。

はじめての「自分の選択」

出会って半年が経つ頃、私は自然と結婚を意識するようになりました。

「この人と、一緒に生きていきたい。」

その思いは、無理に決めたものではなく、心の奥から静かに湧き上がってきたものでした。

親の期待でもなく、「いい子でいなきゃ」という義務感でもない。

はじめて「自分の気持ち」で選ぼうとしていたのです。

私はようやく、自分の人生を歩き始めようとしていました。

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