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「母を許せない娘と許されたい母」①からまった親子の心の糸【幼少期】

母と娘

押し入れに閉じ込められた、真っ暗な闇の世界。

押し入れの外で響き渡る、ヒステリックな母の怒鳴り声。

それが私の記憶の原風景でした。

トントントン どこの家庭でもある、まな板の心地良い響き。

昭和のテレビドラマでよくあるシーンの、湯気の立ち上る温かい夕食の団らん。

絵本の読み聞かせをする母親のやさしい声。

そんなものは微塵もなかった。

結婚当初の両親は、田舎の商店街で小さな店を営んでいたが、商売は思うようにいかなかったようだ。

今考えると、運転資金もロクにないまま、よくも行き当たりばったりで商売を始めたものだ。

その日の店の売り上げで食いつなぐという、自転車操業。

遂には商品を仕入れるお金も無くなり、母一人に店を任せ、父はサラリーマンになってしまった。

「そんな儲からない店、早くやめちゃえ!」

と、大人の私なら意見しただろうが、子供には、そんな事情など分かるはずもなかった。

記憶の片隅にだが、印象深く残っている事がある・・・

「ここに隠れてて!出てきちゃだめ!!絶対に声を出しちゃあダメだからね!!!」

階段の奥でじっとしているよう、血相をかえた母に、強く言われたことが度々あった。

後々、分かったことだが、仕入れた商品の代金が払えず、居留守を使う。

私を階段のすみに隠れさせていたのだ。

家計はいつも火の車。

相当貧しい家庭だったが、当時の私は、貧しさを我慢していたという記憶はあまり残っていない。

母に遊んでもらった記憶はほとんどなく、もっぱらの遊び場は、学校の裏山と近所の商店街。

商店街の店先を、アチコチの覗いては、大人たちがせわしく働くのを見るのが好きだった。

三軒向こう隣の靴屋は、特に居心地がよかった。

靴屋のおじちゃんの作業、時間を忘れるほどジッと見ていても全く飽きる事はなかった。

おじちゃんは私を追い払う事はなく、そっとしておいてくれた。

皮靴や接着剤のにおい、おじちゃんの汚れたエプロンのにおいが懐かしい・・・

母はいつも、私が外へ遊びに出る際の条件をつけていた。

それは「妹を寝かしつけてから遊びに行きなさい」だった。

私が遊びに出かけると、妹が私の後を追い、母が手を焼くから・・・理由は、こうだった。

この条件をクリアしなければ自由に遊ぶことが許されなかった。

妹は、何処へ行くにも後をついて来たがる。

私も妹はかわいい。

妹が大きくなり次第、一緒に連れて遊びに出るようになった。

たまに「足手まとい」に思ったり、「ウザイ」と感じることもあったが、それでも妹は可愛かった。

母に代わり、歯医者の付き添いや保育園の送り迎えも、私の仕事だった。

そんな生活が8歳まで続いたころ、両親は店をたたむ事を決めた。

開店から、わずか9年で店を閉め、親戚を頼り、別の街に引っ越すことになった。

近所に友達もたくさんいた。

店を閉めること自体は何とも思わなかったが、住み慣れた大好きな商店街を離れる事が、大きな苦痛となった。

通い慣れた銭湯・太った八百屋のお姉さんの笑顔・ちょっぴり怖かった布団屋のおじさん。

そして何より靴屋のおじちゃんとの別れがつらく悲しかった。

あの当時、白髪頭で、ハゲかかっていた靴屋のおじちゃん。

多分もうこの世には・・・居ない・・・よな。

新しい引っ越し先は、父の会社の社宅だったアパート。

初めてのアパート暮らしは、幼心にも、ちょっぴり都会を感じた。

真っ白な壁や、ドアノブ、玄関の扉も木戸ではない。

目に写る何もかもが新鮮で、新しい。

いつの間にか、引っ越しした時の寂しさも無くなっていった。

社宅には、1つ年上のお兄ちゃんが住んでいて、よく近所の公園に誘ってくれた。

当時、小学3年生だった私だが、自転車の補助輪が取れていなかった。

「大丈夫!怖くないよ。僕が後ろを持ってあげるから。」と、優しいお兄ちゃんは、いつも練習に付き合ってくれた。

お兄ちゃんとの出会いで、引っ越し先での生活は、楽しいものへと変わっていった。

「あのお兄ちゃん、今頃どうしているだろう。元気にしてるかな・・・」

時々懐かしむ、淡い思い出だ。

社宅に引っ越してからの母は、裁縫が得意だったことが功を奏し、ミシン内職に精を出していた。

ミシンの仕事がない時は、ボタン付けなど、細かい仕事も断らず、一生懸命だった。

内職の仕事は、割が悪い。

外に働きに行った方が、はるかに効率がいいのだが、父は母が外に働きに行くことを許さなかった。

当時はお金の価値はもちろんのこと、効率的な働き方など全く知らなかった子供時代。

今思い出すと、本当に母はよく働き、子供たちが布団に入った後も、ミシンを踏んでいた姿が思い出される。

ある朝、目を覚ますと、枕元に2匹のクロネコのぬいぐるみが置いてあった。

母は夜なべ仕事で私と妹のため、二匹のネコを作ってくれたのだ。

「疲れていただろうにな」寝る間を惜しんでまで、私たちのために・・・

この二匹のクロネコのことなど、何十年も思い出すこともなかったけれど、こうして過去を振り返っていると、切ない。

当時の母の深い思いを、ほんの少し感じ取る事ができた。

子供たちをかまってあげられない辛さや寂しさ、生活苦・悲しみを抱えながら、一生懸命思いを込めて、クロネコを作ってくれたのだろう。

母の忙しく働く姿は、この先もしばらく変わらなかった。

学校から帰ると、母に代わり、買い物や妹の面倒をみて過ごす日々だった。

夏休みには読書感想文が宿題に出されていたが、学校からの推薦図書は買ってもらえなかった。

また、毎年ある時期になると慈善事業への寄付のためということで、学校で、生徒に対して鉛筆の販売があった。

確か・・・「恵まれない子供たちに愛の杖」という名前の鉛筆だった。

子供心にも、「たとえ1本でもいいから寄付したい」と強く思ったが、たった1本の鉛筆でさえ、買ってもらえなかった。

他人に寄付する余裕がなかったのだろうか。

もちろん、買う買わないは自由だが、「お母さんのケチ!」と言い放ったことは覚えている。

その時の母の事を、決して良い人間だとは思えなかった。

相変わらず忙しく働いていた母だったが、運動会と参観会には来てくれた。

参観会のあとの懇談会は必ずいねむり。

運動会の時、ポプラ並木の陰からそっと応援してくれた母の姿は、今でも鮮明に目に焼き付いている。

そんな小さな出来事が、母とのわずかな思い出だ。

母は事あるごとに

「お姉ちゃんなんだからしっかりしなさい!」

「お姉ちゃんは、常に妹たちの見本にならなきゃいけないの!」

三人姉妹の長女である私は、妹たちよりも厳しく叱られ、常に不公平を感じるようになり、母への愛情は、いつしか深いわだかまりへと変わっていった。

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